03: 理由なんていりませんただ大切なんです


アズカバンは、本来なら悪夢の中にしか存在しないはずの、終わり無き恐怖と闇そのものだ。
そこに送り込まれた者は永遠に繰り返される精神的な苦痛の中でいつしか人間としての己を失い、壊れてゆく。精神の死は、ただ単に生を中断するだけの肉体の死とは違う。その人間の尊厳も信念も、全てを叩き潰すのだ。私はその場所を思う度、よくそこまで残忍なことが思いつくものだと魔法族の人間性を疑わずにはいられなくなる。
私は実際にアズカバンを目にしたことはない。未来にそこを訪れる可能性は無きにしも非ずだが、少なくとも今、幸いなことに私はその地に留まれるだけの権利を有していない。
シリウスはそこに居た。十二年間。
私が百五十の満月を数える間、ずっと。

シリウスがまだアズカバンに居た頃、私は何年も彼が行った裏切りについて悩んでいた。
私にとってシリウスは、彼を心の底から信じた友人を裏切り死に追いやった憎むべき人間であると同時に、酷いことに私が本当の意味で信じることの出来た数少ない友人の一人で、彼らのためなら命を賭けてもいいと思った人間の一人だった。
シリウスはジェームズとリリーを裏切り殺したのだ、アズカバンに送られるのも当然の報いだ。そう思う反面、どうしても親友がアズカバン送りになることを悲しまずには居られなかった。私は相反する感情の間でいつまでも振り子のように揺れ続け、必死になって「彼は裏切り者で、私は彼を憎むべきだ」と私は何度も自分に云い聞かせた。
私はどうしてもシリウスを切り捨てられずにいた。
彼は私の知らない所でピーターと十二人のマグルを惨殺し、私の知らない所で捕まり、私の知らない所で裁判に掛けられ、アズカバンに送られた。私が彼のした事を知ったのは彼が捕まった数時間後であり、彼の裁判の行方を知ったのはそれから更に数週間後だった。そもそも公開裁判などというものが行われない魔法族の裁判に立ち会うことは不可能で、私は結局全てを人伝てに聞いた。最後に会ったシリウスの、迫り来るヴォルデモートの影に緊張を強いられてはいたものの普段とさほど変わらない笑顔を思い返す度、私はひどく混乱した。裏切り者としての彼を一度も見ていなかった私には、唐突に押し付けられた現実は抱えきれない程に重く、それでいていつまでも現実味を持たずに薄っぺらなままだった。
どうやら自分がシリウスの罪を信じ切れていないらしい、ということにはっきりと気付いたのは、彼が幸福を感じる権利を永遠に奪われてから半年ほどした頃だった。ヴォルデモートからの開放を喜ぶ人々、デスイーター達への怨嗟、死んでいった人間を悼む声。そんな圧倒的な人々の感情に押し流されている間は何も考えずに済んだ。けれど気付けば私は一人で、ああ、これだけ誰もが騒いでいるのだから、その喧騒の中からシリウスかピーターがひょっこり現われたりはしないだろうか、と考えていた。
私は愕然とした。自分の感情をコントロールする術は、今までの狂おしいまでの努力で確実に身につけてきたはずだった。何があっても理性で受け止め判断出来るという確信もあった。だが、そうではなかった。これは許されざることだ。もはや友人に対する裏切りと云っても間違いではないだろう。私は憎むべきものを憎まなければならないのだから。
私は静かに自分を断罪した。
私は自分に一つのことを課した。それはジェームズ達と過ごしたホグワーツでの七年間と、卒業後の三年間の記憶を一つ一つ辿り、私の記憶の中のシリウスを順に否定することだった。
その日から私はゆっくりと記憶を辿り始めた。記憶の中でシリウスを目にする度、彼は結局裏切ったのだ、と私は強く自分に云い聞かせた。あの時彼は私達と下らない悪戯をして笑い合っていた、だが彼は裏切った。あの日彼は涙を流す私を慰め、友達だろうと云った、だが彼は裏切った。彼は私達を裏切った。私達はそもそも友人などではなかったのだ。
持ちうる限りの記憶を全て反芻し終わると、私はもう一度ホグワーツの一年生から始めた。そしてシリウスを否定していった。私はそれを十二年間繰り返し続けた。
ピーターに会うまでは。
私がピーターに会ったのは、叫びの館でだった。
怪我をして蒼白になったロン、ドアの傍で立ち竦むハーマイオニー、血を流し床に横たわるシリウスと彼の心臓に杖を突き付けているハリー。そしてロンの手の中で明らかに恐怖に怯えている、鼠の姿をしたピーター。それを見て、私は全てを知った。そしてシリウスを信じる気持ちの欠片が未だに心の片隅に残っていたことにほとんど感謝を憶えた。
それからのピーターの態度は、本当の意味で私を救った。
かつて私達の友だったピーターは怯え、泣きわめき、云い訳をし、罪を他人になすりつけ、媚を売って私達に縋った。彼の取った行動と態度は私が十二年間ひたすら見たいと思っていた裏切り者のそれで、私はようやく誰が裏切り者であるか、そして誰を憎むべきかを知ることが出来た。私は昏い幸福に満ち足りた自分自身をはっきりと感じ取った。
私はとうとうジェームズとリリーを殺した人間を心の底から恨むことが出来たのだ。
そして私は誤解が解ける最後の一瞬まで結局憎みきれなかった友人を一人取り戻した。

十二年もの誤解が解けたあの日から一年が経って、彼、シリウス・ブラックは私の許にやって来た。
最初、私はシリウスが十二年もの年月をアズカバンで過ごしたにも関わらず、日常生活には問題無い程に回復したらしいことを喜んだ。一年前まで必死に自分に対してこれは当然の報いだ、彼自身がこうなることを招いたのだ、と繰り返していたその考えがこうも簡単に覆されたことに私はどうしても苦笑を禁じえなかったが、それでも私は嬉しかった。友人が裏切り者ではなかったことに、本当の裏切り者が裏切り者らしく振る舞ってくれたことに、そして帰ってきた友人の無事に安堵した。
だが、私の希望的観測は夜が訪れた途端、たった一日目にして崩された。
積もる話を交わし、ささやかな食事を共にし、就寝前に挨拶を交わし合うまではよかった。いざ寝室に向かおうとして、一人暮らしの為に借りたこの小さな部屋には寝室と呼べるものが一つしかないことをようやく思い出した。私はソファで眠ることを厭わなかったのでシリウスに寝室で眠るように勧めたが、幾ら云っても彼は自分がソファで寝るべきだと譲らなかった。君はどうやら体調が万全ではないようだし、だからこそ出来得る限りきちんとした環境で静養するべきだ、と主張した私に、彼は「しかし、」と躊躇する様子を見せた。私が黙ったまま彼をじっと見ていると、彼はしばらく逡巡していたが、やがて私に背を向け寝室に姿を消した。
私は寝室のドアが閉まるのを確認してから、ソファに枕を置いたりして寝る準備を整え始めた。それからすっかり整えられたソファの端に腰掛けて、私は今日の出来事を反芻した。部屋は静かで、考えることはたっぷりあり、コンクリートと漆喰で切り取られた空間に満ちたやや肌寒い空気は私の意識を睡眠から遠ざけていた。
私は今までのシリウスのことを考え、それからもう少し前向きになるべきだと気付いて今後のことを考えた。彼は人間の姿さえとっていなければ犬として通用するだろうが、どうも普通の犬と比べると大きさで目立ってしまう。それに彼はマグルの生活に慣れていないし、どうにも不便だった。どうせならもう少し田舎に移った方がいいだろう、この部屋だって二人で暮らすには狭過ぎるし。私はそんなことを考えながら、ふと、これからはシリウスと生活するのだから、まずは早速買い出しに行かなければならないだろうと思って微笑んだ。つい、買い出しに犬の姿で私についてくるシリウスを思い浮かべてしまったのだ。シリウスもマグルの生活にはなかなか興味を持っていて、さっきまで散々電話やテレビについて質問された。きっと興味津々で私の周りをくるくる回るのだろう、と思うと微笑ましくてたまらない。
私は自分の想像に笑い出してしまいそうになりながら、枕やシーツと一緒に寝室から持ち出した本を手に取った。有名なマグルの文学で、ある男が変装やトリックや心理戦の技を駆使し、魔法も使わずに様々な財宝や芸術品を盗み出す話だ。
ここで一番人々に馴染みがふかいものは、その泥棒ではなくむしろ対立する立場にある探偵についての物語で、私もそのシリーズは気に入っていた。シリウスはどちらかと云うと泥棒の方を好みそうな気がするが。
二時間後、私が読書を終えて、それではそろそろ寝ようと思った時、寝室から叫び声とひどい物音が聞こえた。
私は驚いて本を放り出し、寝室に走りながら杖をしっかりと握った。
「シリウス?」
寝室のドアを開けると、シリウスが蒼白な顔で壁に背をつけて座り込んでいるのが真っ先に視界に飛び込んできた。ベッドの横の棚に並んでいたはずの本が床に散らばっている。視線は落ち着きなく小さな部屋の中を彷徨い、それなのに目の前でドアが開いたことにも気付かないようだった。
「……あ、あぁ……ゃだ……」
まるで誰かに首を絞められでもしているかのように苦しげな表情で、シリウスが呻いた。
「ぃやだ……ぁあああ……いやだ……」
「シリウス。シリウス」
「い……やだ、いやだ、厭だ!こんなのは望んでいない、こんなのは、」
肩を掴むと一瞬シリウスがびくりと反応し、視線が私のちょうど頭上のあたりを不安気に見回した。手が私を拒絶しようとして力なく宙を泳ぐ。
思ったよりも身動き出来ないことにシリウスは恐怖を覚えたらしかった。怖がらせてしまったことに慌てて手を離そうとした途端、シリウスがますます必死で抵抗を始めた。
「シリウス。それは夢だ。現実じゃない」
「厭だ、こんなのは厭だ、おれはこんなことは望んでいない!」
「シリウス、」
「厭だ、厭だあああ!」
暴れようとするのを止めるべく、体ごと両腕を押さえようとするが、闇雲に振り回されたシリウスの腕に胸部を殴られて私はよろめいてしまう。肺に受けた衝撃のせいで上手く息が出来ない。苦しい呼吸を繰り返しながら、それでも何とか彼を止めようと左手首を掴んだ途端、頬に衝撃があって私は横なぐりに床に倒れた。
倒れた勢いで、床に側頭部と肩をしたたかにぶつけた。
特に殴られた左の頬骨の辺りが燃えるように痛み、それに顔を歪めると更に激痛が増して、私は堪らずに呻き声を上げた。
私はしばらく目を閉じて痛みを堪えてからゆっくり起き上がり、シリウスをじっと見つめた。一瞬、彼と私の目が合う。
そのまま私は彼から目を離さずに、そっと両手を彼に伸ばした。
ゆっくり伸ばした手がシリウスの頬に触れると彼は怯えた顔をして体を震わせたが、しばらくそうやって頬を包んだままでいてから彼を怖がらせないように引き寄せると、彼は最早抵抗をしなかった。私は精一杯丁寧に彼を抱き締めた。
「大丈夫。大丈夫だよ」
果たして私の声が彼に聞こえているかは甚だ不安だったが、私は構わずに出来る限り優しく声を掛け続けた。
そうしながら背中に回した手をゆるやかに上下させると、シリウスの体の力が徐々に抜けてくるのが解る。
「……さっきまで本を読んでいたんだ。ある探偵の話だよ」
静かになったシリウスを抱き締めたまま、私は探偵の物語を彼に話して聞かせた。
一つきりしかない小さな窓からは深い夜の終わりが良く見えて、私は友人の頬を音もなく伝う涙をそっと拭いながら、彼の夜の終わりを探した。


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