02: あの日から浮かぶのはいつも決まって


私が再びホグワーツを離れてから既に一年以上が経っていた。
今の私はロンドン近郊の小さなアパートに住んでいる。魔法界ではなく、マグルの世界の方の。
人狼である私がダンブルドアの助けにはあまりならないことは最初からよく解っていた。まだ育ちきっていないダンブルドア側の勢力の中心に加わるには私の抱えるハンディキャップは大き過ぎるのだ。多分もうしばらくすればこの問題も解決されるのだろうが、今はまだ無理なのが現状だった。だから私は逆に一番彼らのカバーし切れない部分をカバーすることを考えた。
確かに今、闇の勢力は力を盛り返す為に当面は敵対する魔法族を狙っている。けれど最終的な彼らの目的はマグルを根絶し、純血の魔法族だけが生きる王国を作ることだ。
マグルの関わりは一見薄いようで深く、だからこそ情報の種類は多い方がいいだろうと私は判断し、マグルの世界に住むことにした。そもそもこちらに住む魔法族はほぼ皆無と云っても間違いではないだろうし、私が人狼であることは、魔法そのものの存在を信じない者が多いマグル界では、少なくとも誰の助けも得られない今は魔法界でよりは隠し易かった。
マグル界での生活は意外と気楽だ。
ただし、とりあえず最初は非常に困った。
まず通貨が違う。マグルの通貨は紙や軽い金属のコインだ。私はまあ少なくとも金や銀は使えるだろうと、そういった貴金属を扱う店で魔法界のコインを売ろうとした。そしてそのデザインがマグル界にはないものだということを思い出し、慌てて魔法で適当に鋳潰してから売却した。
次に、部屋を借りるにはどうすればいいのか、散々人に尋ね回らなければ不動産屋に行かなければならないことが解らなかった。そんなことも知らないのかと不思議がる人々にあまり不審感を与えないよう、自分は今まで学生だった上に、この国は初めてなのだと説明した。まさか30歳を過ぎて学生はないだろう、と自分でも思いはしたのだが、驚いたことに誰一人として私の言葉を疑わなかった。私が話しかけたマグルのうちの一人は、自分も二年前までは大学院にいたのだと教えてくれた。どうやらここでは人生の大半を勉学に費やす人が、多くはなくてもそれなりに常識的な数は居るのだ、と学んだ。
ようやく辿り着いた不動産屋で、今までに何度もした自分は外国人なのだという説明を繰り返すと、どうやら英語はそれなりに話せているらしいから、これを使うといいと云って、そこの主人が私に辞書をくれた。その辞書のお陰で私の生活は実に急速に楽になった。
そうして私はこの部屋を借り、何とかして家具を揃え、食料品を買い、電気代と水道費についての紆余曲折をたっぷりと経てそして今の生活が始まった。
基本的にマグルはあまり他人に干渉しない。わざわざ干渉してくる人間が居ても、こちらが丁寧に拒絶すればあまりしつこくはないのだ。変人に対する許容もなかなか広い。どうやらマグルのこういった傾向は都市に近付くにつれその度合いを増すらしい。
だから私はプライバシーを守るにはほぼ苦労をしなかったし、同じアパートの住人と少し親しくなったことでマグル界について色々と学ぶことが出来た。例えばテレビや電話のような代表的な電気機器だとか、税金制度だとか、習慣だとか、あるいはスラングだとか。
マグルの生活は悪くなかった。家事は徐々に学んでゆくことが出来たし、慣れるとむしろ魔法界よりもずっと快適だった。
満月ために魔法界に戻り、ホグワーツで教職に就く前まで使っていた第二の「叫びの館」で人狼として過ごす以外は、だから私はずっとマグルの世界に居た。
私は当然のことながら定職には就かず、必要最低限の生活をのんびりと送っていた。
そんなある日、玄関の呼び鈴が鳴って私は驚いた。
基本的に私の部屋を訪れる者など居ないのだ。私の知り合いはせいぜい外で会った時に数分立ち話をする程度の関係なので、部屋に招待したことも無い彼らが私の部屋を訪れる可能性も非常に薄い。
私はベルトに差した杖を手のひらで確認しながら、ゆっくりとドアを開けた。
真っ黒なものがそこに居た。
私は呆然とした。
「……シリウス?」

多分私は一秒も呆気に取られてはいなかっただろう。
確かに驚きながらも、私は殆ど本能的に自分の一番速い動きでもって相手の咽喉の辺りに杖を向けていた。
「リーマス、」
云い掛けるのを遮って私は更にぐいと杖を突きつけ、1インチの狂いも無いように狙いを定めた。相手が黙ったのを確認してから、押し殺した早口で質問を投げかける。
「名前は」
「シリウス・ブラックだ」
「もうひとつの名前は」
「パッドフット」
「学生時代私が君達に隠してきた秘密は」
「……お前が人狼であることだ」
「ハリーの名付け親は誰だ」
「俺だ」
私は「これはシリウスだ、もういいではないか」と頭のどこかで云う声を無視して、少し目を眇めた。
「私と君で、卒業前に二人で行った場所は」
「いつも行っていた湖の、一番北にある小川の上流」
「二年前の、叫びの館で」
「俺は正気を失ったお前と戦った。確かお前の左腕の付け根のあたりを一番酷く噛んだはずだ」
「……姿を変えてくれ」
云って、呪文を唱える。目の前に見知った大きな黒い犬が現われて、私はやっと杖を半分下ろした。
「いいかい、私は今この瞬間にも君が本物ではないと、もしくは本物でも闇の陣営に与していると確認した瞬間に君を殺す。万が一君を殺しきれなくても、私は君を何処まででも追いかけて殺すだろう。その覚悟が出来たら入るといい」
黒い犬は頷き、私は相手に背中を見せないまま部屋に招き入れると、誰にも見られてはいないか手早く確認して後ろ手にドアを閉め、鍵をかけた。そして私はようやく杖をベルトに差し直した。
「模範的な態度だな、リーマス。流石は元闇の魔術に対する防衛学教授だ。グリフィンドールに10点!」
私がドアを閉めた途端に人間に戻ったシリウスは、そんなことを云いながら昔のようににやりと笑って見せた。
久々に自分以外の人間のために紅茶を淹れる準備をしながら、取り敢えずシリウスに椅子を勧めた。
ティーセットをきちんとセットで持っていてよかった、と私は心の中で思った。でないとシリウスに一つきりしかないカップを差し出した後は、私自身はスープボウルで紅茶を飲まなければいけないところだった。
「それにしても突然だったね、シリウス――前もって連絡してくれても良かったんじゃないかい?」
「いや、ここに来ようと思ってからは、出来る限り完璧に痕跡を消しながら来ることにすっかり集中していたんだ。お前に連絡一つ入れていないのには後から気付いたが、むしろその方が追っ手には解り難いだろうと思って、その後も出せなかった。悪かった」
私達はしばし沈黙した。
私はやかんを火にかけ、何も云わないまま、向かい側に座るシリウスを見つめた。あの非常識な長さではなくなったが、彼の髪は彼が学生の頃一時期していたように腰の辺りまであった。脱獄した頃と比べれば随分ましにはなったものの、相変わらず彼らしくない痩せ方をしたままだ。ただ、表情はこの二年間で随分戻ってきたようだ。二年前の彼はまるで笑い方というものを忘れていた。
彼は私の極端なまでに質素な、だがいかにもマグルらしい部屋を、失礼では無い程度にじっくりと眺めていた。その辺りの微妙なマナーの良さは失われていなかったのだな、と私は少しばかりそれを喜ばしく思った。
数分もしないうちにやかんの水は適温になった。私は一旦シリウスを観察することを止め、一度湯を通してから、紅茶を丁寧に淹れる。
「まあいいよ。どうやら私も誤解したまま君を殺さずに済んだようだし」
紅茶のカップを差し出しながら云うと、シリウスはちょっと笑った。
「お前に疑われたり裏切られたりすることと死は俺の中ではもうイコールで結ばれているんだ。俺は多分誰よりもお前を信じてるよ。お前と、ダンブルドアと、ハリーを信じてる」
私は紅茶を飲みながら少し驚いて、それからカップを置いた。視線が自然に下へ下へと下降してゆくのを止めることができない。
「じゃあ私は多分君よりはずっと保身的なんだろう」
そう云うと、シリウスはまるで私が取るに足らないような下らないことを口にしたのように顔をしかめた。
「保身的で何が悪いんだ」
「……だって私は君よりは自分を信じている、と云っているんだよ」
「お前がそう云うのはまるで、頭のいい奴は頭がいいってことで自分を責めなくちゃいけなくて、馬鹿な奴は自分が馬鹿だということを責めなくちゃこの世は平等じゃないんだ、と云っているように聞こえる」
「それは少しばかり突飛な例えだと思うけど」
微かな微笑みと共にそう返すと、シリウスは楽しげに目を細めた。
「お前が俺より自分を信じていようがいまいが、俺が文句を云ってない限り問題無いだろって話だよ。それでその問題の無い俺はお前と住みたい。一人は意外とつまらないんだ」
「ああ、解ってるよ。……解ってる」
頷いて、私はそっと笑った。そうだ、君は結局最後には結論を纏めて出すような人間なんだった。
きっと彼もマグルの世界で生活することに決めた私と似たようなことを考えたのだろう。大量殺人の容疑を抱える脱獄犯、という彼の状態は、どうあってもダンブルドア側について動くには双方にとってリスクが大き過ぎる。
そして彼はいくつかの選択肢の中から旧友である私の許を選んだのだろう。
私ははっきりと自分でも喜びを感じながら、友人に向かって笑いかけた。
「よろしく、シリウス」

そうして私の生活には一匹の黒い犬が加わることになった。


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