「砂時計の止め方」 6
その部屋は真昼だというのに暗くひんやりとしていた。
雲ひとつない屋外から差し込むはずの光は厚いカーテンに遮られ、その部屋に一人きりで俯く男の姿形を曖昧にしていた。
「……御伽話をしようか」
暗がりの中で、男が膝の上で組んだ両手を見つめたまま呟いた。返事は無い。
「昔々、あるところに若い夫婦が居ました。彼らはお互いを深く愛していて、とても幸せに暮らしていました」
「けれどある日、妻は夫が家を抜け出してどこかへゆくのを見てしまいました。妻はそれをとても不思議に思いましたが、夫に訊いても答えてもらえません。そのうち妻は夫がたびたび家を抜け出す理由がとても気になって、ある晩夫が家を出たのを見た妻は夫の後を追うことにしました」
「妻が夫を追ってどんどん森の中を進むと、夫は突然立ち止まり苦しそうに呻き始めました。驚いて走っていこうとした妻は、夫が毛むくじゃらの恐ろしい化け物に変身するところを見てしまったのです」
「妻は恐ろしくなって逃げようとしましたが、その化け物は妻に気がついて凄い勢いで追って来ました。どんなに一生懸命走っても化け物はどんどん追いかけてきます。妻が家の近くまで辿り着いて戸口に立て掛けてあった銃を取ったとき、とうとう化け物が妻に追いつきました」
「妻は夫から貰ったお守りの銀の銃弾を銃に詰め、化け物を撃ちました。化け物は倒れて動かなくなり、妻は恐ろしい化け物が居なくなったことを喜びました」
男は目を閉じ、静かに息を吐いた。
「人狼は、銀の銃弾でしか死なないと云い伝えられている。確かに人狼は銀に弱い。銀の銃弾なんて致命的だ。だけど、銀じゃなければ死なないという訳でもない。銀だからと云って手足を撃たれた程度で死んだりもしない。人間の形をしている間は普通の人間と全く変わらないし、例え人狼になっていても人間の数十倍頑丈だというだけで、基本的には普通に攻撃しても殺すことは可能だ」
深海のような空気は微動だにしない。
「私は銃を持っている。そしてそれには銀の銃弾が詰まっている」
男はそこで一旦言葉を切った。
男がゆっくりと呼吸をする音だけが響く。
「私がそんなものを持っているなんて、おかしな話だ。本当は彼が持っているべきなんだろうけどね、彼はそんなものが必要になる時が来るはずがない、例えそうでも自分が止めてみせると云って受け取ってくれないんだ。だから私が仕方なく持っているんだよ。いつか必要になったら、いつでも彼に渡せるように。……彼は自分が殺されても絶対に受け取らないだろうけど」
そこまで云ってから、男は笑いのような表情を浮かべた。
部屋に満ちる黒の中、男の眼だけが鈍くかすかな光を反射している。その光は何の感情も表してはいなかった。
「……私は時々夢想する、私を撃ち殺す彼を。彼の腕の中で息絶える私を、死にゆく私を見つめる彼の眼を。私には解らない、それが果たして幸福なのか不幸なのか、彼にとって幸福なのか不幸なのか。ただ解っているのは、私がそれを渇望していることだ。……そうだよ、私は望んでいる。どんな形であれ、永遠に私を忘れない彼を。彼を失わなくて済むことを。ああ、」
男ははっきりと笑った。
「私はそれでも悲しいくらいに正常だ」
それだけ云うと、男はゆっくりと立ち上がった。
先程まではほとんど感じ取れないほどにゆっくりと流れていた部屋の空気が、男の動作に攪拌される。ゆらり、と血の匂いが立ちのぼった。
男の靴が床に当たる度に小さく音を立てる。
男は床に転がる幾つかの屍体や血溜まりを踏まないようにして扉の前に立つと、真横の床に横たわる少女の開いたままの眼を見つめてまた少し微笑んだ。
「お話はこれでおしまいだ。――おやすみ、いい夢を」
靴音は徐々に遠ざかり、扉はゆっくりと閉まった。あとには数人分の屍体と折れた杖と少女の亡骸と破れたぬいぐるみだけが残されている。
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