072 : 喫水線



ふと、違和感を憶える瞬間がある。
それは例えば疲れと共に飲み下すコーヒーに感じる苦味や、言葉が見つからなくて俯く時の髪が頬に触れる感触や、そんなものと大して変わらない些細なものではあるのだけれど。
それでも、その微かな違和感は確かにゆっくりと何かを蝕んでいっているように思えて、俺はいつだってそれをひどく意識してしまう。
何かが喫水線を越えてしまいそうで。

基本的に、大野くんは優しい。大抵雰囲気が柔らかいし、小さなことで怒ったりもあんまりしない。
だけど、それってつまり無関心ってことなんじゃないか、と最近よく思う。
何でだろう、特に理由は無いんだけど。でも、時々ここって結局は大野くんの居場所じゃないんだな、と思ったりして。
今は仕事もそれなりに順調だし、多分あんまり不満とかも無いんだろうけど。それでも、もし大野くんに仲間を選べる権利があったとしたら、色々いる中からわざわざ俺達を選んでくれるかどうかはかなり疑わしい。そんな感じ。確かに毎年親しさは増してゆくけど、例え大野くんにそんな気がなくてもこれだけ長い間一緒に居れば誰だってそれなりに親しくなるものだから。
仕方ないのかな、とも思う。
誰だって自分の感情を思うままにコントロール出来る訳無い。理性と感情って別物だし。だから、もしも大野くんが本当にここに居る意味を見出せないんだったら、それでも俺達に大野くんを責める権利なんて全然無い。
まあ……大野くんの勝手なんだけどさ。
でもやっぱ、それって結構淋しいっていうか。や、そんな淋しくない。ないって。……そりゃちょっとは淋しいけどさ。
何だろ。虚しいって云った方が近いかな?そりゃお互い色々感じ方は違うんだろうけど。でも、要するに今まで一緒に過ごしてきた時間が結局は無駄になってたってことじゃん?
この感じを言葉にするのって難しくて出来ねぇんだけど、何て云うか。
それってちょっとキツいな、……とか。
カタン。
手にしていたCDプレイヤーか何かを置いて、大野くんが立ち上がった。同じソファの反対側に座っていた翔くんは、何やら重要そうな紙の束に目を落としたまま、大野くんを見もしない。
どうやら翔くんは大野くんを意識してるっぽいけど、その辺は確かじゃない。だけど、二人の雰囲気が微妙におかしいのは解っていた。
立ち上がる瞬間に大野くんがほんの一瞬翔くんを見て、それから楽屋のドアを開けて出て行った。
多分何か飲み物でも買いに行くんだろうけど、俺には大野くんがどこか苛立っているように、あるいは不安を抱えているように見えた。
垣間見えた、大野くんがたまに、……ほんのたまにひっそりと見せる、俺が不安にならずにはいられないあの表情。
大野くんはいつものように何も云わずに出て行ったけれど、その背中は何かを確かに拒絶していた。
あー……。何なんだろ。別に俺には関係ねぇし。
そうは思っても、やっぱりそれなりに心配で。
俺はソファの上に両足を上げた、いわゆる体育座りになって、両膝の間に顔を埋めた。
……早く帰ってこねぇかな。大野くん。

「嫌いだ」
「君が嫌いだ」

うずくまったまま目を伏せ、大野くんが戻ってくるのを待ちながら。
部屋から出て行きざまそう呟いたように見えた大野くんの言葉を、俺はそっと頭から追い出した。